途端に情熱が薄れる

絵に描いた餅の話は大好きな癖に、具体的にどうやって絵を描くか、という件(くだり)になると、途端に情熱が薄れる。
実はその中身が一番、大事なのに。
過程を疎かにして、結果ばかりを追い求めているということか加拿大Stream A移民
だが、著者が勧める人生時間の楽しみ方は、今、わたしが実践していることと同じ。
入口ややり方は違っても、出口からは同じ道。
なので、真ん中の過程にあまり興味を示さない。


目的だけでなく、目的に辿り着くまでの経過を含めて楽しもう、堪能しよう、という著者の言葉。
目的に向かう家を出た時から、その前の、家で準備をしている時から、もう楽しみは始まっている。
決めた目的のことだけなら、一瞬で終わってしまう。
これは、わたしの今の現状、心情にぴったりマッチする。


実はわたしは目的は何かを薄々悟っているmyob 教學
それも幼少時から。
なので、あくせくムキになって頑張っている人が目の前しか見えていないのもわかる。
人生の目的を成し遂げることなどないと感じている。
次の目的が続いて待っている。
次から次へと活気があってイイね、なのだろうけれど。
鼓舞しようと自分に鞭打っているようにしか見えない。
それはそれで結構なことだが。


山には頂上があり、登りきってはいけない。
わかっているが、(人は)登る。
が、降りる自分、降りることに労力をかけなければならないことを実感する厳しい現実に直面することになる。
それが嫌なら、登らないで、ずっと歩いていれば良い。
山も谷もなく、ひたすら歩く。
が、メリハリのある自分の一生を自分でデザインするには、自分と向かい合わなければならない。
自分は何を求めているのかを明確にし、それを実現するために大まかにプランを作る。
大きなプランの実践の延長に今日がある。


今日の続きが明日なら、とても幸せだ。
明日、また明日のことを決めたらよい輸入內地人才計劃


著者の人と、ある意味、共通する心境である。
が、そんな心境はある日突然、神様からのプレゼントで天から舞い降りてくるわけではない。
自分でやらないと。自主性のもとに。
神様は後ろからそっと背中を押してくれるだけだ。

たりルールを色々教えて

裕さん、ブログ村エッセイの、ご注目の文学ルーキー、どなた様かな?
興味津々。
わたしも本は読まない。
社会的な教養書みたいなものは、たま?に読むことがある甲狀腺抽針
が、ほぼ読まないと言っても良さげ。
ブログ村住人のある方に昔むかし、リクエストされ、自分で小説を書いたこともあるが、ほんの少し。
ちょびっと、リトルビット。
あくまでも要望に応えてみただけのチャレンジだった。
当時、リアル知人が文章教室で小説を習っていたこともあり、小説を書くにあたりルールを色々教えてくれた。
が、それが重苦しく、自由に書きたい野生児のわたしとしては、窮屈で足枷になった。
自分が好きなように伸び伸び書きたいわたしには、面白くなかった。
なので、一作でやめた。
制約やルールは、わたしは大嫌いである盆腔超聲波檢查


ちなみに、他人の書いたものを読む時、わたしは、文章表現法はさることながら、視点、感性、考え方、捉え方に着目する。
だが、かなり良い内容でも、書き方があまりにも読む気を削ぐようなら、ちょっとだけ読んで、サジを投げる。
読み進める体力がない。Too hard しんどい。


あるいは、難解すぎるものもNG、
何が言いたいのか、何を言っているのか、さっぱりわからないものもNG。
当たり前のことを当たり前に書かない作風は、わりと好き。
自分が興味あることしか読まない。
そして、究極は、自分に関わりがあるものしか読まない。
いたってわかりやすく、現実的。
だが、歴史や科学、自分には直接関係ないが、人間には間接的に関わっているから、脳が元気な時は読む。
さらさらと、すでに知識として知っていることの確認、答え合わせみたいなものか。
知らないことに出会うと、結構、脳は喜ぶ。
まだ脳はそれなりに生きているようだ被蚤咬


互助会的なブログは敬遠する。
(会員同士がフォローし合うもの)
いいね!のポチは増えるかも知れないが、いずれ苦しくなってくる。
縛られないものが気楽で良い。
ただし、アクセス数は増えない。
あれもこれも、欲張るには、それだけの筆力や人気がないと無理。
中にはすごく文章力がある人もおられるが、所詮他人なので、山のように存在する達筆家の中に埋もれてしまう。
やはり、自分と何らかの接点、関わりがあるものに興味引かれる。
つい最近では、農作しておられる方とか、自然界で生きておられる方、昔流の暮らしをされている方、、、応援したくなる。
わたしには出来ないことだからだ。

の自立心の無さについ

さて。
今日は昔話を。
過去から現在、そして未来もずっと引きずって行くだろう、わたしの自立心の無さについて。
正確に言うと、自立心はあるのだが、気持ちの上だけであって、実質は伴っていない。
それ、自立してないのと同じ移民溫哥華條件
(※身体に問題があって自立出来ないケースには言及していません)


精神的に自立出来ない、精神的な病気も今回は横に置いておき、、、
健康な心身を持っているにも関わらず、自分が自立していないことについて書きたい。
あ?、前置き、説明が長い。
昨今は、世の中は何かとデリケートになっているので気を使う。


で、話を戻す。
わたしは自立心はあるものの、サボりなのでどうもいけません。
つまり、最後のあたりで、踏ん張りが効かない。
ここぞ!!というところで、スタミナ切れ。
なので、いつも、ああ今回もダメだった、、、となる。


30歳ぐらいの時。
アメリカにほんの短い期間、ホームステイした。
未就学幼児3人、日本に置いて行ったので、その間、姑(故人)には大変お世話になり、今も頭が上がらない抽濕機乾衣
足を向けて寝られない。(どの方向?)
ホームステイ先は、コンピュータ関係?の仕事をしていた35歳?ぐらいの独身女性。
大柄で明るい、大まかなさっぱりした性格。
二階建ての回廊型アパート。テラスハウスのようなもの?
建物に囲まれた真ん中に、共有の庭があった。
カリフォルニアの青い空。
メキシコ国境に隣接した街だった。
彼女は、(ちょっとオンボロではあるが)マイカーで仕事場に通っていた。
当時、わたしは喘息を患っていてMAX飲み薬を飲んでいた。
そのことを彼女は電話で友人に話していたのを覚えている。
彼女のお楽しみの日課は、仕事を終え帰宅後、留守番電話のメッセージを聞くことと、送られてきた手紙を読むこと。
電話もしていたかなと北向通
何しろ独身一人暮らしではあるものの、わたしの拙い英語にびっちり付き合ってくれるほど暇でもボランティア精神旺盛でもない。
わたしは彼女に何を話したかよく覚えてないが、彼女は友人には休養(バカンス)で来ていると説明していたような。
お遊び、ってことだ。


確かにお遊びである。
子供を置いてまで、家族に迷惑をかけてまで、必死の覚悟で日本を飛び出してきた気迫はゼロ。
あんた、何しに来たの?の世界だろう。
一応、名目は語学研修なのだが、自分で言うのもへんだが、笑ってしまうレベルだった。
わたしはそういう、何か真面目風、まとも風、お勉強風を装って、たんに実体は遊んでいるだけ、ということが多い。
本人は真剣なのだが、実践レベルが低く努力が伴っていない。
パッケージや包装紙はカッコいいのだが、中身はお粗末そのもの。
表面の体裁を磨いて底上げしているのに過ぎない。
磨くべきは、中身なのに。
どうも、外側から中身に移行すると力尽きるようだ。
それなら、外側には目もくれず、黙々と着実に努力し積み上げていけばよいのだが。
若き日は、まずは外側から、器から、見た目から入ることが多い。